僕の毎日を、思い出として書き残す。
何一つ役立つものはないが・・・
何日か前にネットで、「働きたくない」という悩みの記事が目にとまった。
実は僕もぜんぜん働きたくないのだが、別に悩み事にはなっていないから何とも思わなかった。
友人に聞いても皆が働きたくないと言うし、職場の人も働きたいと願う人はいなかった。
だから、働きたくないのは普通の事であり、なぜ犬の足が4本あるのか悩むような話だと思ってしまう。
実際どうなのだろう、何十億人もの人間で働きたいと思っている人数は?
ところで、働くの意味はいろいろあるようだ。
少なくとも僕の周りの人は、人に使われる働き方はしたくないらしい。
これにはサラリーマンのように、組織の一員となる事も含まれる。
それ以外に、俗に横着者で何にもしたくないという人もいるようだ。
どちらも働きたくないと言葉は同じだが、意味ははだいぶ異なっている。
さて、人に使われる働き方をしたくないにもかかわらず、何故そのような働き方をしているのか。
それは生きるためであり、ただそれだけの事である。
ロビンソン・クルーソーのように、一人で暮らすのは大変である。
何もかも、自分だけの知恵と力でこなさなければならない。
そこで自分が得意な事や、得意でなくとも自分で出来そうな事を選んで働くのである。
まぁ、分業というのだろうか、これが仕事になるわけだ。
このように分業をすると、一人で何もかもやるのとは格段に楽な生活が出来るようになる。
すると今度は仕事の効率を高めるために、仕事の場所を一つ所にするようになる。
大勢が集まって仕事をするのでルールが必要になり、ここで拘束感が生まれてくるのだろう。
自分の思うようにやりたいのが人間の常なら、ルールに縛られるのは嫌だと思い始める。
しまいには、働きたくないと・・・
ここでロビンソン・クルーソーの生活と今の生活を天秤にかけて、どっちが良いのか考えればなんとかなる。
しかし、横着者が働きたくないと言うのは、どうしようもない。
現代は何でも病名をつけてしまうらしいが・・・、そうではないだろうと言いたい。
どうしても働きたくなければ、そのまま横着を続ければ良いし。
生きる事の願望が強ければ、何かしら働く事になるだろうと思うしかない。
ただし、盗み働きは良くない事なのでやってもらっては困る。
働きには違いないが・・・